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相撲の役割。 [政治]

多分今回は、モリカケの件での発動なのかなと思います。

旨く使われているのか、忍従しているのか演技派か判りませんが、
親方の涙も怒りも、検察、官僚に向いたものかもしれません。
今の理事は知らないし調べていないので、文責は負えませんけど、
昔は、

http://zutsuki.blog.so-net.ne.jp/2010-02-07

「山崎先生によると、日本相撲協会理事が厳しく追及したそうなのですが、
なんと、追求したその理事は2人とも元官僚。元警視総監の吉野、元東京高検検事長村山両氏だそうです。
そして所謂横審委員長が、引退勧告書を書いたらしいのですが、その人はあろうことか日経新聞社長鶴田氏。

官僚とマスコミが一体となって、小沢不起訴ニュースで1面を飾る事を阻止する為に、政治部長会議の議長の新聞社社長と、面目潰れた検察のOBが、そんな事の為に、仕組んで平成の名横綱を引退に追い込んだという酷い話しのようです。」

http://zutsuki.blog.so-net.ne.jp/2011-02-08

まあ、そう構図は変わらないでしょう。
元々相撲は、占領期、野球と並んで良く研究されたテーマであったと思います。
ですので、近年はやたら頻用されますが、芸能界とほぼ同じポジションと考えて良いのでは。

短めで。

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所謂”陰謀論”について。 [日記]

ちょっと違う話題を。

 事実を、荒唐無稽な物と混ぜてストーリーにする、陰謀論というカテゴリーがあります。とても面白いですよね。単純なオカルトやスピリチュアルより面白い。

なんで面白いかと言えば、ある現実の事件に関して、世に出ている情報より少し深い情報が含まれ、途中までぐいぐい帰納で語られる。おおこれは、と読み進めると、最後は断定的情報として宇宙人とか、謎の組織、スピリチュアル等に接続され、お笑いになる(笑
これらサブカル、オカルト、精神世界の棚に置かれるニッチなビジネスモデルです。これは一定の需要があるでしょう。出版したい側にですが。

メジャーな報道に管制が敷かれると、情報の飢えからこの真実を散りばめたオカルトにたどり着く。良いとこまで来て最後宇宙人かよと(笑
結果、世の中にオカルトか、統制の聞いた真実に触れない様に気をつけて作られた情報の、どちらかしか無くなるという環境が出来ます。バカだとレッテルを貼られ、自分の権威が失墜するのは嫌だ。けど、他に正しい情報もない。さあ困った。懐かしい言葉で言えば、ベイトソンのダブルバインド的状況ですか。

実際の所、人々はその言葉で知られる反応に陥るように思う。
例えばここで、表向き普通に生きつつ、恐らくここまでが真実だと見極めて、その先こうだろうと演繹して、そっちは腹に持っておくという人はあまり多く無い。

外交で言うディスインフォメーションを、自国の大衆に向ける際、ガス抜き風に穴を塞ぐ保険のような装置、それが陰謀論という事になるでしょうか。それでも掘ろうとすると、そこまでの設えを発注し統制できる力がある存在を向こうに回すという事になるから、全く無事でいることはなかなか難しい。

その存在は一体誰なのか! 実はトカゲの目をしたレプテリアンのユダ金です。アセンションで高次元に行きましょう! 

とかいうのが、ま、少し前の陰謀論オカルトの典型的な流れです(笑

このblogの昔からの読者はもう殆どいないと思いますが、昔良く書いた事を繰り返しますと、なんだかんだ、ほぼ全てのニュースは多かれ少なかれ管制アジェンダに基づいていると言える。
つまりは、回覧板、掲示板代わりのメディアを組み込んだ政府と官僚という事になります。そうじゃないという御仁は、まあお読み頂かなくても結構ですが。メディアに総体として良心を見ようとするのは最もやってはいけない勘違いではないかと思います。

ただ、メディアに悪意があると言う訳ではなくて、許認可制であれば官庁、なんらかのオンブズマンであればその構成要素に従う、「装置の運用」が、メディアの仕事の第一という事です。
ニュース番組にも台本がちゃんとある様に、メディアの組み方にも台本があって、それが編成ですが、スポンサーに従い、それらは間接的に官の掌とそのメディアの運用特性の組み合わせで束ねられていまる事になる。

良い悪い全く抜きにして、その”運用”そのものを売るのがメディアの商売の根本なのであって、”ジャーナリズム”等は発揮出来る領域があって予定調和が編成出来れば、そこで運用サービスとしてのプロダクツのフィーチャーとして行われる。それだけの事です。それぞれ得意領域を持っていて、その範囲内で仕事をすると。その1つに、陰謀論の立て付けもあると言う事です。

陰謀論のライターを見ていると、若い頃鋭い仕事をしていた人が多い様に思う。
ある日突然レプテリアンとか言う様になります。鋭さを発揮したために、落ち込んだ場所が陰謀論で、当座食う為にそこでしか生きて行けなくなった人がやるもの、そんな印象も良く持ちます。

こんな私の小論を正しいと思ってくれる人がいたとしたら、どうして世の中変わらんのかと言う理由は、もうこれ言わずもがなだと思いますが、そのダブルバインドの間で右往左往して生きている人々ですね。
メディアの囲いの中で生きている人々。ネットも既に長い年月をかけて最早一般メディア化しましたから、それも含みます。

日本で知的というのは、社会主義的、リベラル寄りの常識を持っている事が基本であった様に思いますが、メディアの姿勢、偏向に文句を言ってる人、陰謀論を避ける人、これは広く都市型指向の常識的な多数派が皆そうな訳です。

つまりは自分の属する政治勢力やメディアの崩壊を座して見ながらその内実を知らず何も出来ない人でもある。最も進んだ常識を持っている様でありながら、今の状況に陥る環境を形作った勢力は、少なくとも今はこの人々でもあると言う事になるでしょうか。

そして、そうなってから更に、都市型の知的なリベラル層でいる、という事は、全く自分等から動き出す事が出来ない層と言える。
最早、首都圏的な集約地域の特権的なシステムに依拠する前提で、その層の同調圧力の下で単に取りうるスタイル、という事になるでしょうかね。宗教や他の勢力が出て来るのは、ある意味当然の帰結に思える。

この辺で。
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その後。 [日記]

介護と呼べる状況に入りかけてから、ほぼ4か月程経ちまして、父の具合も完全には戻らないでしょうが、かなり良くなり、母もそれほど進行していない。

毎週クルマで週末1時間かけて実家に行って世話をし、通院や用事の際は休暇をとりながらも、いくつかのサポートを得ながらやっています。両親の暮しを実家でなんとか生活を成立させ、小さい子のいる自分の家庭も壊さずに、仕事も結果的に大きな変化なく、今日を迎えられています。

正直自分への負担はかなり大きいですが、やれるという見込みを持てています。今の状態が恒久的ではないにせよ、次も次で考えて動いて行く事が出来ると思う。

 父が入院して認知症の母と二人の頃は、実家に張り付かざるを得ず、デイサービスの合間に病院に行くと、弱った父からも仕事諦めてくれという様な事を言われました。確かに当時の状況ではどうしようも無く見え、そういう話も大変良く聞く。一時期は仕事を継続する事も諦めざるを得ないかと思いました。

当時3年近く育てて来た仕事に予算がつき、そのプロジェクトのリーダーとなって2か月。年齢的に今後そうそういくつもやれない。それ以前に、現時点でそれなりに重宝されている所のあるサラリーマンですからすぐにクビになる事は無いですが、休暇を使い切れば休職となる。

当然キャッシュフローはアウトばかりになり、ローンを払ってはやって行けない。子供が小さくて1馬力ですから、自分が倒れたらそれで終わりです。それを置いても、休職して介護にあたったとして、いつまで続くか判らない中、昔風に言うサラリーマンとしては、最早終盤ですから戻った所でどうなるか判らない。
結構誤解も多いのですが、介護休暇ってのは介護そのものの時間を頂ける訳ではなくて、介護申請等の為の休暇という意味ですので、休職が基本です。

なんとか会社に行ったとしても、週3日、デイサービスの合間しか会社に顔を出せない。3時間しか行けない状況で、仕事も最早限界と。

人それぞれなので、余り参考にはならないと思いますが、そんな中でどうしたか書いて行きます。

まず第一に決めた事は、「また両親二人で実家で暮らせる事を目標にする」という事です。父も事故が無くても神経系の難病もあり要介護、介助の状態だったので、なかなか厳しい目標ですが、まずは父の認定の方を進める。

一方で母のショートステイか、短期入所を懸命に探しました。母の病院が預かれますと言うのですが、見せてもらうとかなり厳しい。そこはもうかなり進んだ方が多かった。この中に入ると一気に進むだろうと。
一方で父の病院のワーカーに相談していたのですが、2週間かそこら過ぎた頃、系列で老健施設に空きがあった。見に行くと、デイサービスの施設とほぼ変わりないし、皆結構明るい。

で決断をしました。
申し訳ないと思いながら母を入れた。多かれ少なかれそう言う物だからとワーカーや施設の人にも慰められましたが、半分騙して入所させる。これはやはり「捨てる」訳です。本人は行きたく無いわけですから。これで良かったのかといい歳で泣きながらの帰り道の運転中に見たキツい色の夕焼けは忘れる事が出来ません。

実務的な細かな話ですが、そこから服や下着やら、入れ歯のケースやら何やら、全部揃えて名前を書くような事も、契約以外に必要になる訳ですね。両親共に投薬があるので、お薬手帳やら医療連携も取らなければいけない。これは経験の無い人にはとまどう事になると思います。また実家周辺でゴミ出しや町内会的な部分において、ある程度挨拶とお願いをしないといけない。

父の退院と予後の相談を病院や地域のケアワーカーと相談して、一旦家に戻し暮らせるか見極めるべく、リハビリ施設にいれずに家に戻す事にする。母が入所してから父が退院するまで1週間程度の余裕を作り、ここで鬼の様に仕事を片付ける。

で、父の退院ですが、まず、道路から階段で家に上がれるかどうかです。そして暮らしに障害がないように家を整えて、出来ない家事の対策を取り、介護認定前提のサービスも幾つか頼む。
母が帰ってくると振り回されますから、まずは一人で暮らせるか見極める。頭はしっかりしていますから、安全面だけ守れれば、一人で家においておく事が出来るから仕事にいける。
ここから2週間でそれなりの状態となったので、施設に母を迎えに行く。前日が納涼祭で、会うと浴衣等着させられて、結構それなりにやっている。見つけると「こんなに人がいるのにお前よくわかったねえ」と言われ、進んでいないなとホッとしました。
翌日から、家事と食料、その他必要な物が2倍になりますから、その辺のケアをする。週一で実家を整えて、問題があれば解決する。

9月から、溜まっていた海外の各地域のセットアップで、出張も入れました。3週間くらいは海外に居た事になります。キツいスケジュールで疲労困憊ですが、ロンドンやらニューヨークに居ても、Amazonで必要なものを実家宛に注文できる時代。これは本当に助かりました。海外の路上で、空港で、スマホで総菜やパッドやらを実家に頼む。

帰国して実家で状態を確認し、料理や仕込み、ハウスホールドをして、偶の食事をすると。
そんな感じでなんとか回っています。

しみじみ感じたのは、介護保険前提のサービスというのは、いざと言う時、そしていよいよという時には本当に有り難いものですが、それに頼り切った前提で目指さない方が恐らくいいと思います。そこは最後のポイントだと思った方がよい。
というのは、人に合わせて制度は出来て居らず、営利団体に卸す訳ですから、人の方が食われて行く部分がどうしてもある。どうしようもない所までまだ来ていなければ、「まず暮しを保つには」と言う事を考え抜いた後に使い方を考える、という順番が吉だと思います。
後はお金は肝心です。バッファとフロー。これをとにかく確保できていないと、予定が崩れた際のリカバリが難しい。

例えば介護度が取れないとか、サービスが無いとか、一方、個別事情でどうしようもない、という局面に陥る事は多々あります。保健医療と同じなのですね。

後は割り切りと時間の使い方と周囲の巻き込み方。
私の場合、地方から東京に出て来た両親と私だけなので、どうにもならないのですが、この間、兄弟、親類縁者の援助が得られれば、本当に有り難いだろうなと思いました。

一方、まだお願いはしていないのですが、手伝うよ言ってくれる長い友人も幾人かあって、これは心の奥に灯がともるような申し出でした。そういった人の繋がりで助け合って進めて行かなければ、本質的に「良い」方に進む事はないだろうなと。そう思います。

制度に任せきりはやはり姥捨て山なんだろうと。そしてそれもしょうがない事もあるけども、ギリギリまで保つには、そうした人の繋がりと場所がいるのだろうと。それによってこそ、逆に暮しをなんとか保ったままお迎えが来るまで行ける事もあるのだろうと。

そんな風に思いました。
この辺で。
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育児介護等。 [日記]

暑いですね。

母をデイサービスに送り出してつかの間ホッとする時間です。
ケアワーカーや病院と相談、、身の回りのこと、会社への報告等、その後を段取りしなければいけない。
今日もなかなかキツイ日です。

父が入院し、仕事を休み、実家に戻り認知症の母の面倒を見ています。

一日大過なく生活を保持しても、終わりが見えない同じ事の繰り返しですが、これまできちんとわかっていなかった、子育てのや介護の社会問題や事件の理由もだんだん分かるようになりました。

認知症介護の方は、本質的な状況そのものが改善される事は無い。

子供の様にいずれ何かを覚えて自立する訳ではないし、感謝をされる訳でも無く、むしろ会話があまり成り立たない中での共感の失敗で、罵詈雑言を浴びせられたりする事もあり、少しづつ手のかかる領域が増える。偶に戻って喜んでも、それが続くのは難しい。

幼児でも、認知症の老人であっても同じなのは、こちらの睡眠は不足し、込み入った作業は難しくなり、頭は靄がかかったようになる。気の利いた事をするヒマもないし、神経が回らない。

間に合わせの物は間に合わせで済ませ、自分の頭も、面倒見ている人に引きずられるかのように、社会の表層で語られているような事については精緻に考えることが困難になってくる。子育てマンガなんかで良くある、大人と喋りたいというやつですね。

 一方、ミクロな目の前の生活を成り立たせる事、食事や掃除、健康に必要な事にはぐっと精緻になる。
これはかなり女性目線という事になるでしょうか。おおざっぱな男の家事の時と異なって、買う量等も、飯を出す所まで、なんとなく把握できてくる。一品と副菜が菜物で大方成り立つように工夫する。それがなんとなく出来てくる。これも、少しでもいいから自宅で火を入れた物でないと、心が荒んでくる。

なにを買い置いて置かなければならないか、おさんどんが早いか、洗濯が楽か、清潔に保てるか、そろそろ何が足りないか、等勘が効いてくる。自分の物もミニマムになるし、無理の無い形を選び、これまで自分の人生というのは、どれだけ意味の無い無駄で覆われていたのかと思うようになる。いったい何で埋めていたのかと。

煩雑な手続きを経ますが、結果保育園、デイサービスに上手く預けられればそれでも随分いい。
送り出して、次の用事までのほんのひと時、暑い日に冷たいアイスコーヒー、それがインスタントを溶かした物であっても、一人で飲むそれは、小さな命の洗濯になる。

このあたり、お金を出すならむしろチェーンのコーヒーより、もう少なくなりましたが、喫茶店の本格的なコーヒーが飲みたい。
得られる経験という事には、むしろ感覚が鋭くなる。

その他にいろいろ気づく。
軽自動車に乗れるか、免許があるかは、地方だけでなく郊外のニュータウンの様な場所であっても、ライフライン並みの重要度と痛感する。無いと有るとで暮らしのレベルが全く変わってしまう。

「ゴミ屋敷」と良く話題になりますが、認知症気味の独居老人等は多いだろうし、昭和のおっさんなど自分で飯さえ作れない人が大勢いたし、また生活保護を受けていれば移り住む事も多いから、分別ルール等配慮しがたくなって、使えそうな物を取っておく性癖と併せてなんとなく貯めこむ所から始まるのだろうか、等と思う。

漸く慣れて、それでもまだ、自分が家で面倒を見る事が出来る様な、時間的、経済的に余裕のある立場ならいいのです。
この辺正直適性があるから、出来る人と出来ない人がいるのも分かる。

自分は男ですが、このままやっていく事はできるだろうと思う。父が戻ってそちらの介助が増えてもやりおおせる自信がある。そこに自分の子供が加わっても、できるかもしれない。

 しかし、大きな問題はお金だろうと思います。働かなければいけない。

大きな企業では、メイン事業の中核人材であれば、逝去と弔辞等でせいぜい1~2週間程度が限界。
それ以上の離脱でも重要な局面の仕事である場合は外されるだろうし配置転換もある。長期に渡れば無給の休職。

スキルワーカー系であれば、テレワークなどの制度に合致しやすいかもしれない。しかしながらそれは、コンプラ等にコンシャスで、ダイバーシティの対応がプロモーションになると判断しているキレイな企業のお話で、今日日大抵はクビになるでしょう。

大黒柱がそうせざるを得ない場合、なんとか得た保育園やサービスに金を払いながら、その短い時間の間で出来る仕事しか選べない事になる。主導権をとられる。
今は基本の暮らしはそのレベルの賃金では賄えないから貧困に落ちてゆくと。
多くの社会問題は、こういった流れの中で起きてくる事を、自分も入口に身を置いて、身に染みて感じています。

散漫な話になってしまった。
この辺で。
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みんなある意味認知症。 [日記]

言葉を選ばずに言うと、疫病神というような存在がありますね。

そういった事や人等、誰しも多かれ少なかれある物だと思うんですが、振り返ると自分は割とそれを取り込んで生きる方を選んで来たような所があります。

それは長年の経験から、最後には良かった事が多いからで、最終的には意味が無い神様は去るという事もある。自分にとっては、そういう存在が、世の中と自分を固定する新たなくさびになってくれる場合も多い。

でもこの歳になってみると、見えている道のりが、もしかすると、自分の人生でこなしきれないかも、という場合も出て来る。そう言う時は途方に暮れる。どうした物かと思う時があります。

きりがないのに自分にはきりがある。

差し詰め、仏陀の出家はそんな頃かと想像したりしますが、極端な話をすると、認知症の介護の果ての事件は、そういった事に考えが全く及んでいない人が、どうしようも無い所まで追い込まれ、その果てに起るのだろうと思います。

子育てや介護を経験してこの世を振り返ると、どんな人も所詮(自分も含め)皆認知症とそう変わらないのではないかと思う。

自己保存の強い人程、他の回路が遮断して認知症的になる。その場において物事広く見られる人は、カタルシス的不満のゴミ箱になる。

そんな人はどうしたら良いか。

結局はある程度個々の欲望を認めながら、宗教やイデオロギーに依らずに、大きく、廻りの人にとってサステイナブルで良い方向に向かう様な構えや動きを間違わずに取れる人でいる、ということになって行くんだろうと思います。

ここで、小さなカタルシスの為の、嘘や欺瞞に耐えきれない人はちょっと難しいのだろうなと。そして逆に、大きな事が、小さなカタルシスの為に無かった事にされてしまったり、その機序を使われる疫病神も多いのだろうと、そんな事を想像するこの頃です。

今日は短く、この辺で。

タグ:介護 認知症
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