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国籍騒ぎの件に反応する人々。 [政治]

 蓮舫さんの国籍問題が喧しいですが、ネトウヨ的な、純潔主義保守方面からの批判に一瞬違和感が。
というのは、本来この集合は、思い通りに振る舞ってくれない韓国等と比較して、統治したのに好いてくれる(と表面的に言われる)台湾が、大好きな人たちだから(笑

日本国籍もって、議員当選して大臣もやって、何を今さら問題にするのかという面もありつつ、ちょっと俯瞰して世論形成の問題と見て何がしか語ろうと思います。

 実業界には台湾系の人は割と多いように思いますが、朝鮮半島出身の人も、これは実業でも特定業界に多い。そして芸能界、議員、代議士も非常に多いと見聞きします。そんな人が左翼、リベラル政党で、ガチに権利者代表だったり目立ったりすると、これはもうボコボコに叩かれる。

一方、政権党の議員であれば、大好きな台湾でなくて、ヒステリックになるお隣の国であってもネトウヨは叩かず華麗にスルーする。「ダイバーシティを配慮したネトウヨ」ってのは素敵ですが、言語矛盾に近い(笑)のでこれはない。
今回、出身国に関わらず、政権党でなければ、台湾も同じパターンで騒がれることが分かった。

騒ぎの元となる鏑矢を放って、ネットやメディアを使って偏狭な世論を醸成して行く存在は、見てきたように優れて自民党ポジションとパチッと被る訳ですね。その点を外して語るすべてのメディア、ネット上の議論はアホダラ教といって差し支えないのではないか。

 このblogで何度も書きましたが、メディア、代理店は優れて広告か受託モデルであって、そこにジャーナリズムも何もあるわけではなく、我々の公僕でもなく、木鐸でもない。
そこから演繹して考えた場合、すぐにわかりそうなものですが、誰も視聴者の為に運営製作していない。しかしメディアの撒いたアミコマセに引っ掛かって、爆釣されてしまうわけです。

それはなぜか。

卑近な例で言うと、町の灰皿近くに人がいれば、吸っていないのにその人に向けて鼻を摘まんでみたり、クセエと声を出して言ってみたりする人が沢山います。似た様な物で、子供から老人まで持っている、言ってみれば「悪」の側面の心理です。批判していいお墨付きを得て安全地帯にいることができるなら、自然と他人を攻撃する人が多い。

メディアのやっていることは、アジや、メバル、太刀魚等々、釣り船のレーダーで集合を狙って釣り船出すようなものです。我々は釣果。そのある集合の一般呼称が「ネトウヨ」であって、求めても得られない存在理由を他律的に求める集合を言う。
一番食いつきやすいコマセが何かと言えば、「日本人は素晴らしい説」な訳です。なにしろ努力いらずの生与の条件で、人口の大半をカバーしているという超大型魚群ですから。

その魚群は、何も努力無しに、日本人で有る無しだけで安全地帯から他人を攻撃できるとした時、これは老若男女、残念ながらカタルシス、メシウマを感じ、実行してしまうあさましい人が多いという事です。昔から他人の不幸は蜜の味ともいいますね。

このあたり、中田安彦さんが翻訳したバーネイズの古典を是非読んで下さい。
http://zutsuki.blog.so-net.ne.jp/2010-10-05

蓮舫さんの様に選択して帰化した人は、政権党やらその別働隊やら影響下に沢山存在します。こんな時静かにしたり、荷担したりする。やむを得ずの側面もあるでしょうが、むしろこうした集合に取り巻かれながら、左翼で在日人権の活動をしている人材は立派な筋の通った人間の様に思います。

保守のオッサンと言えば思い出すのが、昔見たディナーラッシュという映画。

ガチなクラシックなイタリア料理を好む、ダニー・アイエロ扮するレストランオーナーが、いつものイタリア系のシェフでなく、代役の焼いたステーキで客が唸っていたので(だったかな)、厨房に降りて、焼いたの誰?と聞くと、イタリア系でない野球帽被ったアメリカの青年でした。それを見て「贅沢は言わんよ」とウインクして帰るのですが、トランプでさえビジネスオーナーを長くやっていて、そのくらいでは有る訳で、純血保守系の皆さんも皆そのくらいであって欲しい。自分は最低でも「アジア人」くらいの枠でいたい。

ちなみに、蓮舫さんには今後も議員を続けてほしいとは思うものの、まだあまりうまいステーキが焼ける方では無さそうで、代表は厳しいのでは。
自民別動隊のお方は論外として、もう一人の方はあまり素性は知らないのですが何だか印象はあまり無い。結局蓮舫さんなのかもしれませんが。

この辺で。

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シン・ゴジラの感想。 [日記]

シン・ゴジラ見ました。
夏休みの感想文です。

まずいきなり感想を言いますと、これなかなか面白かったです。

初代ゴジラのあらすじをwiki等で見返すと、大きくは1作目を大事にリメイクしたといった印象。出現の事由、核の問題、政府の対応、パニックと、脚本の筋立てや大きな流れを踏襲しつつ、当時はビキニ水爆、今は震災、福島の原発爆発という背景の元作られている。

カット割やアングル、それに合わせてCGが良く出来ていて映像は全編リアルで素晴らしい。
ゴジラの出現、移動ルートは八ツ山橋から何から、首都圏左下人生を送って来た自分には、大変良く見知った場所のオン・パレードで、それでリアルに感じるのは、良く出来ているという事だろうと思います。映画館で見るべき映画です。

ゴジラの足元で起る市街の破壊のシーンも大変リアルに描かれている。
今回のゴジラは擬人的な部分は無くて、新生物かはたまた神かという存在ですから意図のある「攻撃」をしてくることが無い。ただ自然災害の様に進んで来る。最初の出現は津波、2回目は原発を想起させる。

どうしようもない圧力の中、逃げ惑う人々の演出はいちいちウワーギャー的な演出が無くて、遠方カメラか、人々目線のリアルなパニック状態なので、震災が想起されて正直見ていて辛いシーンもあった。
同じ感想を持つ方は東日本には多いと思います。
同じ光景を嫌と言う程見た我々は、その中で命を落とす人々にどうしても気持ちが行ってしまう。へんな話、怪獣映画で、破壊されていく街や車の中の死に行く人を思って心が辛くなる映画というのはこれが初めてで、今の日本人にしか表現出来ない物かもしれません。

俳優さんの演技は、これほぼ全編、脚本を進行させる為の1アイテムという感じで、無駄な泣き、一人よがり、最近多い胸郭の薄そうなヤンキー叫び(笑)等ありません。
ゴジラの野村萬斎さんのモーションキャプチャ以外に賞が取れそうな演技はまったくないのですが、玄人受けする豪華キャストがポンポン台本進行上の役割をこなして、これもまた良いです。脚本を邪魔しない。
そうでない部分が一点だけあって、なんぞご都合があったかなあ。。と勘ぐるミスキャストが(笑)。それについてはまた後述します。

 内閣、諸官庁にの動きも、超巨大核融合炉生物みたいな物が都心をゴロンゴロン勝手に転がっていったらどうなってしまうかという事を良くシュミレートしてあります。
自衛隊の稼働条件、地位協定、国連、連合国安保理等、一通り含めてあって短い映画の中で良く構成したと思います。これは殆ど今までの映画では無いのではないか。

内閣諸官庁の様子に関しては、これはとても慣れ親しんだ感覚がありまして、何かというと自分の会社ですね。
結論に至る過程、条件等、アカウンタビリティをいちいち整え、会議開催と承認プロセスを経る。殆ど説明の為の説明に終始する様な状況は大会社と同じ。実際会社内でもそういう愚痴を言う人は五万といますが、それはある程度真実です。

映画でありがちなケースでは、意味無し会議を無視して、ヒーローが活躍するということになりますが、実際にはそれは起らない。
ヒーローの活躍にも裁量権と承認がいるのです。好ましいと思ったのは、一応対外的に踏まなければいけない段取りという感じで描写している事です。そうしないと、諸外国と協力の交渉は出来ない。実際企業も、全く別の力が独自に外部と交渉、発表、執行するという事等ないのです。それは単なるクーデターですから、会社が割れてしまう。

戦後は、ギリギリまで余裕等無くなって判断停止すると、いつもお上に具申する訳ですね。アメリカです。「所詮我々お前等の属国だからな」と、アメリカの特使に自嘲的にいうシーンもありますが、実際、福島の原発爆発の際、無人機出して、空母出して、米軍に降下もさせ、F2に指揮官置いている事実があります。その辺モチーフにもなっているのだと思います。

昔blogにも書いたのですが、2011の7月に、バイクで原発周辺に行ってみました。すると、GE、東芝他、民間会社が20キロ圏ギリギリのあたりで、対策本部を幾つもつくっており、突然何も無い筈の森の中に、車がぎっしり停まっていて驚いたりしました。ゴジラならぬ福島第一の民間収束のチームだった訳ですね。

もとい、首都圏民の避難等とても完了しない中で、自衛隊の総攻撃をせざるを得ない状況でどうするか、首都が破壊されたら米軍のある立川に移される模様、脅威が他国にある%で及ぶと予測されると、国連と言う名の連合国安保理は、日本を石棺にする決議さえ出るという事等、事態の深刻度が増す度に自国と周囲の判断がどう進んで行くのか、良く語られている。

 で、忘れておりましたが、その日系アメリカ人の重要な役柄は、とても人気のある女優さんなんですが、登場すると、どうも映画が、ちょっと頑張ってる外資の女性キャリアのドラマみたいになってしまう(笑

彼女の役柄が、もし、ダニー・イノウエ、広島出身の移民にして422部隊の勇者、名誉職とは言え、何かあればアメリカ大統領任命される第3位に付き尊敬を集めていたダニエル・イノウエさんの子孫という設定だとするなら、これは厳しい。
しかも、そこそこ議員か官僚だったか、七光りはあれど、向こうの世界で切った張ったで生き抜いてきた女性で、将来の大統領候補となるとちょっと。。。

日本、東アジア風の佇まい、英語を喋り慣れていないおちょぼ口で、アメリカで生まれ育って頭と言葉で駆け引きしながら議員までになった格を出すのは、よっぽど英語に長けてでもいないと難しいのでは。向こうで生きた日系人という設定だけでも厳しいのでは。

彼女との会話に、”日本は属国”話があったりする訳ですが、副島先生の功績を感じるのは置いといて、北米で公開した時誰コレ?と言われかねないんじゃないかと。人気もあり、良い女優さんの様ですが、「どの作品に出てもその人」タイプの面もあり様にお見受けし、ちょっと向かない。

そう思った所で気付いたのが、初代ゴジラが、海外では核絡みの設定削って、欧米の記者の目のシーンを差し込んで公開された事で、もしかすると彼女絡みのシーンは日本向けオンリーなんではないか?

ネタバレ過ぎて、これ以上は書きませんが、このようにサイエンスフィクション映画として、リアルさのある面白い映画でありました。オススメいたします。

ただ、この映画に、何か震災対応の真実等を見ようとする事は止めた方がいい。フィクションですから。その場合はちょっと上映館少ないですが「太陽の蓋」を見るのが吉です。

この辺で。
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日本の選挙。 [政治]

暑い日ですね。。。今日は一部地域選挙がありますね。

野党最大勢力のトップの後釜が、与党右翼の別働隊になりそうで、それを元タレントさんと争うかどうかと言うニュースが流れる中、例えばある都知事候補が、党の方針と違えても離党せずにOKのまま、判官贔屓で優勢という妙な状況。
選挙後には離党と言うニュースもある一方、現政権をサポートするのと同じ宗教のフロント団体のサポートを受けている。かつ現政権の首領はそれを踏まえて東京都ローカル与党勢力を切って大阪方面と会談し変革しようとしていると。

別の国に目を移せば、偶にオゲフィンな事もありつつ上手くやっている正直叩き上げやり手爺がプロレスの悪役化されつつも結構優勢ですが、敵対する当選が前提の様に捉えられているリベラルの方について日本ではチョットした業務手違いのような報道しかされないメール問題があります。

ところが、そのやり取りがなければ、現在の世界的問題がここまで来なかったような重大な内容であると言う事は読書人くらいであれば語られぬワールドスタンダードであるらしい。

こんな、いずれも投票等で絶対的な判断ポイントになると思われる事ごとですが、1次メディア、1.5次メディアはスルーで、2次メディアにおいては、それらは「オカルト扱い」になり、むしろくだらないゴシップへの直情的な反応が多い。自分の知り合いさえも結構それに付和雷同してしまい、そういう人を見るとガクリと来る。

一方で、音楽のサービス等で考えると、

マネタイズする遷移が1枚深いだけで一気に売り上げ半減する。
ファンなら情報があれば何処までも掘って確実にクリックする。
ランキングはある程度、集計規模に応じ、メディア価値を持たせる為に整える手段が陰に陽にあるというか、ある程度整えないと使えない。

等のセオリーや傾向がありますが、

一次メディアの情報コントロールをしっかりし、ファンクラブでグッズ売り上げ、動員を稼ぎ、総数の小さい枠の集計(廃れたメディア、ローカルエリア、ジャンルで区切る等)で、最後CD必要な数量仕入れてもらったり、集計自体を買ってランキングを上手く作る。

という様な対策を行っている業者がいるだけにも感じますし、そのような組織、代理店の受託等もある訳です。

これは既に、日本の選挙の今の姿であって、政策議論はほぼ意味無し法一になっているとも言え、選挙民はほぼ、このような事実さえ判らない人々、そんな事はないだろうとしか思えない、もしくは余裕が無い人々で構成されていると。
前者はスピンされ売り上げ倍増、後者は死に票となるというのがシステム化している。一度やった事は、次からの常識になってしまいますので、そうとうこの辺は積み上がって進んでいるだろうなと。

後者は正義や政策議論でいちいち嘆いたりしているよりも、むしろ制度的な設計や、手法に関するアクションを進める用、考えた方を変えた方がよいのでは。

そんな事を思いますです。


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【後半】日本語で生きる事について。 [日記]

 前回、「昔は英語屋さんが居たけど、15年前くらいから変わった」という話を書きました。英語屋さんと呼ばれる人が居るという事は、最終的には日本語主体で全てを語る事を前提として、それが出来た、という事かと思います。

 この1年、海外出張もコミュニケーションも割と少ないのですが、今やっている調査に関しては海外のリサーチやIR資料は全部英語ですから否応無く使います。こんなドメスティックなロートル中年でも、必要性の是非、特にこれからの世代のそれについて疑う余地はありません。むしろ中国語が同じくらい重要になってきているので、残り少ない企業人生でやっておくかどうか悩んでいる。
そんな時代やさかい(笑)、幼児から英語学習をさせる事は格段にスペシャルな事ではない。それこそドメスティック幼児教材の王道、”しまじろう”にも普通に英語の教材がある。幼児から他国語を学ばせる事の議論もありますが、それについてはとりあえず置きます。

 一方で日本語を使える領域や、伝わるニュアンス等が減っているのを感じる。ある程度は時代の流れと思っていますが、これまで書いた様な時代も過ごして来た自分には、実はそれは結構大きな変化だと感じます。「最近の若いのは」的ありがちな文脈ではなくて、この3百年くらいのスパンでの話です。

旧時代、「他国語で得たアセットを、日本語の枠内に積み上げる事、それが当たり前の時代」、海外の最新事情、学問成果等は、おおよそ10年遅れで日本語になって入ってきました。日本語訳が出ないのにやきもきして、このBlogにクソ英訳を乗せたナオミ・クラインなんかはまさにそうですね。日本のこれまでの流れのなかに配置されて纏められた世界観を持った訳本となって入ってきた。つまり解題され文脈に位置づけられて輸入された。

ネットの時代はビジネスのスピードが速く、個々人が海外のニュースに常に直面していないといけない。判る人だけ先に外国語で読んで、判らない人はキュレーション、バイラルメディア等を通じて入る。もうすぐAIにもなるので、1次訳は早い。きっと翻訳業もニュアンスを添加しプルーフする位になりますが。
逆に日本人思考、言語、文脈に照らして纏まった一冊として編纂するような作業は、これは減少していく。そういった大部の日本語を読む人もまたどんどん減っていますので、ますますちゃんとした形の翻訳にならず解題もされずコンテキストも共有されない、つまり、もう積み上がっていかない。

 もっと昔を振り返ると、戦後の途中まで、「英語屋さん」の代表格は、最終的には官僚(〜東大)であったと思います。計画経済で成長しましたから、とにかく日本語圏に囲った自国民に何を伝えるべきなのかそれを考えてやっていた。チャルマーズ・ジョンソンに官僚制を暴かれて、外圧やノーパンしゃぶしゃぶ以降、海外の影響が自分の財布にバッファ無く到達する時代になりました。最早日本語で世界の学問をある程度網羅出来る様に立付ける視点というのは消えつつある様に思いますが、それがいつ出来たのかと言えば、それはやはり明治期でしょう。

 その当時は、富国強兵を進める中で日本のコモンウエルスを周囲に展開し、日本語での世界を作ろう(というより、英語でやるという環境設定があり得なかったと思いますが)と、全体主義、帝国主義的エリートが自らは優れた語学力を持ちながら、輸入と日本語化に励んだ結果です。これが可能だった国は、恐らく当時はアジアには無かったと思います。

今日本を追い抜いて2Gの世界を作りつつある中国も、自らの文化が生み出した漢字を日本が使って西欧の概念、学問、社会制度の輸入をした結果を学ぶ事で、古い文化とそれを為す中国語から、近代化して行く為のレガシーのアセットとして基礎を作った側面があります。孫文の時代は留学生だらけだった。

 明治大正に生み出された、今に至る日本語は、それ以前からすればかなり変革された新しい物で、それがニューメディアに乗って、新聞の事ですが、小説、文化欄含めて人々を啓蒙していった。日常から先進的な学問領域までをカバーする、標準語的な日本語の構築、これはとんでもない労力のいる一大プロジェクトだったでしょう。

少し脱線しますが、当時の日本は、世界平均からすればそれなりの識字率であったと良く言われる。一方で言語と言うのはローカルの口語から学問を著すまで、随分幅のあるものです。一例を上げると、自身の祖父は筆で立派な字を書いた物の、挨拶、仕事等で取り交わす書面等でしか使う事が出来ない証文の言語で、本当の気持ちや考えを字で表す様な訓練はされていなかった。
また、祖母は書く事は出来なかったし、確か読む事もあまり出来なかった。村のゴッドマザーの様に尊敬されていましたが文盲だった。でも彼女の暮らしには要らなかったし、祖父には勘定や手続き手段だった。今の人の様にオナニー的にモノローグをblogに書きなぐる等、あり得なかった。祭り、法事等で、精々唄などで少しハメを外したり、息を抜く。これは、私がすでに生を受けている昭和中後期の事。
未だ、明治の文豪の啓蒙も届いていなかったのです。尋常小学校のレベルが最高の世代も多かった。本も読まなかったと思います。

私が幼稚園生くらいの年齢まで、いまから考えれば殆ど江戸との違いはないのではという感じで、風呂もかまども薪で、いまじゃロハスというのでしょうか。このあたり全く一様ではなかった。
彼らにとっては、実は身近な「英語屋さん」ならぬ日本語屋さんが居ました。「先生」です。代筆、代行等をやってくれる、村に数人居る学のある人。小学校の先生等はインテリの頂点でありました(笑

 戻りますと、そんな中、新しい標準語的な日本語の構築は、先に中国の事を書きましたが、新時代向けにマンダリンを整備するような物だったと想像します。実際日本も、江戸までは、漢語が上層のたしなみだった訳ですね。で、その間戦乱で国を割られた中国が逆に学びに来た。この視点は結構語られない事の様に思います。

それを振り返った上で。今の日本語の状況をどう考えるか。

日本語世界を構築した物の、WW2で敗戦国となった。その後経済大国として成長したけどもまた敗戦です。いまや没落の一途。

そうなれば、日本語で積み上がる文化や学問も無く、日本語を学ぶ必要性は周辺国にはもう無い。老人が増えて世代が消えると共に過去の「日本語に世の中の知識を定着させる」為に努力するエトスと積み上がった多様性と広がりも継ぐ物が無く消えて行く。
新しい世代は、そんな過去は知らないし、明治からの積み上げが分断されたまま、積み上がらず、自分の実務に必要な事は英語や他国後で積み上がっていくという形になっている。

つまり、日本語の必要性はどんどん減って、極端に言うと、グローバルの仕事をする人員が、里帰りした時に昔の楽しかった思い出や、あれを食べた、ここに言った、親類はどうだと、そういう事を近しい人と話す郷愁の現地語、それに近くなって来ており、その流れは止められなさそうだという事です。
ヘジェモニックな動きが取れない一国家のローカル言語になり、自国でそれを深めていくエネルギーもかなり減っていると。

そんな最中に、政治家の質は極めて悪くなっている。
立派で真剣だった過去の先達は消え、モラルが外れ、失礼ながら上の世代が居たら一蹴されていた、出来の悪い中高年の一部が、先達の様な自己承認欲求に取り付かれ、国士無双なカルト的妄想状態で群れていますよね。このblogに何度か書いていますが、確かベイトソンの本だったかで、

「米軍の海外の基地の横に、原地人が同じ様に、廃品や木で櫓を立てて、そこに登って海を棒で見ている。そうすると物資を積んだ船がやって来ると勘違いした新興宗教であった」

という下りがありますが、そのまんまですね。雰囲気満点の仮面ライダーごっこです。こういうのは、逆に米軍側に噛ませ犬で使われてしまいますが(笑
それを止め、諌める側の、マルクスの原典を読んだ様な過去のマインドセットを持った人間ももう居ない。

かつては世界の学問の、一部先端、少なくともトバ口までは網羅出来る、アジア言語としては特に希有な存在で、物理学でさえいけた。でも今は、日本語で語るべき領域はほんとうに無くなってしまった。
つまり、

冷徹な事実として、老人ばかり増え人口が減少する国の、世界で1億人程度しか喋らない他の必然性のない言語になったという事なのです。

実際、少なくとも経済大国からの失策以降、想像されてしかるべき話しではあったのですが、いよいよハッキリした。それを見ない様にする人は、妄想カルトに陥る。

そこで、残りの人生が順調に行っても30年程度の私が、何を考えるか。

震災の時はまだ独り身で、両親が一時行方不明になり、そして原発が爆発した訳ですが、その時に避難する人も多かった。駅は帰国させられる出稼ぎ外国人の子供だらけだったけど、その時、ここ以外、特に行く所等俺には無いよなと思いました。
うっすらと、テレビでよく見ていて不思議にさえ思っていた、戦乱の国に態々帰る被災者に気持ちが初めて判った。

それとちょっと似ているのですが、アラフィフで家族もあって人柱ではあるものの、それは置いて、これからの時間と出来る事に限りがある。仕事でもライフワーク系というのはやはり10年くらいかかる物ですから、後1つか2つでお迎えが来る。そんな自分は、日本中心に、日本語を主要に使う人生を生きようと思います。

これまで書いて来たように、先行きの厳しい言語環境ではありますが、あくまでそのポジションで、少しの歩みでもいいから、新しい世界の知恵や見識を正しく学んで、日本語で語れる様にする努力をして、それを育てて生きて行きたいと思うのです。

長くなりました。この辺で。

タグ:英語 日本語

日本語で生きる事について。 [日記]

最近日本語について考える事があり、それをちょっと書こうと思います。
今の日本で生きる人間は、ある程度ポジションを自覚する事が必要になるなと思いました。

私は、世代的に、一言も英語喋らないうちに社会人となった古い時代の人間です。自助努力もしなかったのでヘタクソですが、商売は海外中心ですから必要に迫られて使ってきました。小さな失敗を積み重ねなんとかやりおおせる程度にはなった。

職場の公用語とまでは行かなくても、最早国内だけの仕事は少ないだけでなく、顧客や同僚が外国人である事も多く、外国語を使う機会は多いと思います。今の2〜30代は、仕事をする前から外国語を使うのがある程度の常識になり、中年も後ろに差し掛かる私は、彼らを眩しく見ております。

彼らや今の環境を見ると、言語の習得はもっと気楽に臨んで始められるものであったよなと後悔もするものの、よくよく思い返すと、昔は大きなデバイドがあった。それをちょっと先に説明します。

今は働く前から、自分の事を普通に英語で伝え、海外に滞在してもそれなりにやれる人は多いですが、昔の商社等一部企業以外はそれよりずっとレベルが低かったのです。私が働く直前の80年代までは、例えば私が入った会社の場合、英語屋さんと実業の人間は明確に別れておりました。

英語屋は、まだかなり少なかった帰国子女や、マーケティング系の海外赴任者の勤めです。御巣鷹山事件直後のプラザ合意までは、ドルは360円とは言わないまでもそれくらいの感覚ですから、当然赴任者は社会の一定の階級の方が多かった。
私が入社した時に、ペラだった方々は、全員が全員、外務省の職員、某都銀の頭取、商社、作家、資産のある方等のご令嬢、ご子息だった。本当ですよ。ESSやYMCA等の独自で学んだ人々は仕事の現場では相当珍しい人で、語学能力はなんらかの出自の経験に基づいていました。

一方、私が大学に入る前のバックパッカー達、これは出稼ぎ、移民寸前のノリから特権階層の文化的先端を行くワンダーフォーゲルと言いますか、つまりガチか特権かでやはり少なかった。社会文化的にも貴重ですから、存在そのものが平凡、マガジンハウス直結で、憧れの存在。その実ベトナム戦争の印象を改善する為の商務省のプログラムや、ソフトパワー戦略に乗せられた人材であったりしました。

私が大学生だった80年代の終盤から90年代入った頃ですが、漸くパックの海外旅行が安くなり、安価なアジア方面では少しニューアカ気味のリベラル系バックパッカー等がクラスに一人、二人出始めた頃です。
その当時でも、まだネットもPCも無い。つまり容易く触れられる英語の環境は、周囲に全く無い状態だった。今の若者には殆ど想像ができないと思いますが、日常触れる事が出来るのは、FENと、MTV、洋画のレンタルビデオくらいだった。

そんな中ですから、英語屋さんでない実業側社員は、名詞を繋げてボディランゲージで特定の話題に関してなんとかやりおおせるのが平均値くらい。今から考えると信じ難いでしょうが、これが90年代の始めです。

大事な事実なのですが、言い方を変えればビジネスも学問も大概の事は全て日本語で済む時代だったのです。むしろ、他国語で得たアセットを、日本語下に積み上げる事、それが当たり前の時代だったんです。それが大きく変わったこの20年くらいだった、という事です。

その後、今の様に本気で誰でもが英語で仕事をやらないと行けない時代になる前、楽天の英語公用語化で皆が想起したり、笑ったりしたノリが、15年前のグローバル企業では起っていた。そうすると、日本らしく中途半端なマジョリティ集合が出来る。

この「日本人村の英語ムード」とでも言うべき物がやっかいで、なんというか、欧米への卑屈さと自己承認欲求と日本企業のヒエラルキーへの服従に開き直りの大和魂が交じったような、ネトウヨ的な、あかんヤツでした(笑
一時期の海外のビデオ等の滑稽な日本人像は、この辺りがモデルです。未だにこの世代でその後も変わらなかった人員が、役無しだけどムゲにも出来ない感じで少し残っていて、まるで、言うだけ番長だった明治維新終了後の勝海舟の様に老害と煙たがられています。

若い人にはきっと、へえー的な話しでしょうが、20年でこんな変化があった。ちょっと長くなるので一旦切ります。

タグ:日本語
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